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幻の夜 アルツロ・ガッティ vs 坂本博之 ~One Nigtht Illusion~

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2000年10月11日。横浜アリーナ。

永遠のメモリアルファイト。
畑山隆則 vs 坂本博之。

激闘の末に畑山が勝利している。

・・もうひとつの世界では?

この日、坂本博之は別の世界王者に挑戦していた。

相手はWBC王者アルツロ・ガッティ。

4度目の世界戦。ラストチャンス。

坂本の拳は世界には届かないのか?それとも結末は違うのか。幻の夜の長い観戦記。

INDEX

両雄の入場曲

超満員の横浜アリーナ。

トリプル世界戦の他にアンダーカードもファンの期待を叶える好試合が用意され、チケットは発売と同時に完売。先に行われた試合はKO決着が続き、場内の雰囲気は最高潮。坂本は入場曲に定番のドボルザークの新世界を使うか別の曲に変えるかギリギリまで迷った結果、変えない事にした。

ラストチャンスの大一番。
新しい世界。

新世界をこの拳で掴んでみせる。

大歓声と共に入場する坂本。「不動心」のガウンを羽織り決戦のリングにあがった。

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「坂本がんばれ!」

「人生変えろ坂本!」

リングサイドには坂本の友人、辰吉丈一郎の姿が見えた。女優の岸本加世子も大声を張り上げている。和白青松園の子供達も垂れ幕を掲げて声援を送っている。

クラシックで入場した坂本とは対照的に王者ガッティはLinkin Parkの「In The End」で入場。間近で見るガッティは映像で見るイメージよりも大きく見えた。

日本のリングに初登場のスター王者を横浜アリーナのファンは歓声で迎え入れた。

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両拳を突き上げながら、リング上を一周するガッティ。その佇まいには王者の風格がある。

リング中央で向き合う両雄。

激闘王者アルツロ・ガッティと、日本ライト級が誇る平成のKOキング坂本博之。

待ち焦がれた一戦のゴングが鳴ろうとしていた。

戦前のふたり

このスーパーマッチが決定したのは2000年6月。セラノ戦の後、次の世界挑戦までは長ければ1年以上待つ事を覚悟していた坂本の元に吉報が届いた。ガッティが持つWBC世界ライト級王座への挑戦決定。

試合が決まるまでの角海老宝石ジムから帝拳ジムを通じてのガッティとの交渉は、意外な程スムーズに進んだ。

ライト級王座を獲得後、指名試合までに選択試合を1試合挟めるガッティ陣営が「負けるリスクが低く、且つスタイルが噛み合いガッティの良さが出せる相手」を世界ランキング5位以下に絞って探す中で、白羽の矢が立った坂本。

ガッティーのマネージャーが1996年に坂本がラスベガスでジェフ・メイウェザーに勝利した試合を現地で見ており「彼ならスタイルが噛み合うし、こちらに戦法の選択肢がある。ジャパンマネーも悪くない額が出るはずだ 」とチーム内に進言したことがきっかけだった。

結果、大きな揉め事もなく2か月とかからず交渉は成立。10月11日。横浜アリーナでのトリプル世界戦のメインとして2人の対戦が決定。

ガッティ戦へ向けて坂本が発する言葉は一貫していた。
「4度目の挑戦です。絶対に獲ってみせる」

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「ガッティと僕のスタイルは噛み合う。向こうもそう思っているはずです。ジョンストンやバサンがやった様なボクシングはしてこないはず。当日どう出て来るかはわからないので、いくつかのパターンをイメージしながら練習してます。絶対にどこかで倒します」

この一戦の為の特別コーチに就任したイスマエル・サラストレーナーと共に、悲壮な覚悟で日々の鍛錬に励む坂本。その目には、ラストチャンスを逃さないという決意と覚悟が宿っていた。この一戦に全てを懸ける・・・

そんな坂本とは違ってガッティは勝った後の展望を多く口にしていた。

「坂本はグッドファイターだ。きっとファンがエキサイトする試合になるだろう。もちろんKOを狙うよ。僕のホームからも多くのファンが日本に応援に行くと言ってくれている。彼らが僕に望むのは坂本をノックアウトすることだからね」

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「その後はライト級でもう1試合した後、来年中に階級を上げる考えだ。元々減量がきつかった事もあるけど、スーパーライト級の方がスタイルが噛み合う王者が多い。ライト級には戦ってみたいと思う王者がいないんだよ。僕と試合をしても逃げ回りそうな奴ばかり。王座統一はスーパーライト級で成し遂げたいんだ」

勝敗予想

ファンや専門家の戦前の予想は割れたが、平均値をとると6-4でガッティ有利だった。

ガッティのスーパーフェザー級時代のルエラス戦、ロビンソン戦は1997年と1998年の2年連続でリングマガジンの「ファイト・オブ・ザ・イヤー」に輝いている。ピンチかと思いきや、逆転の猛攻を決めて試合をひっくり返してしまう勝負強さと一発の威力を武器にのし上がって来たガッティ。坂本のパンチも当たるだろうけど、強打者と世界のリングで打ち合って来た実績と経験は王者が上だろうという見方が多数を占めていた。

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それでも6-4という数字以上に、坂本への期待感は日に日に高まっていった。坂本の得意の左フックが当たる距離で長く打ち合ってくれるのなら・・・坂本が序盤で先に良いパンチを決めたら・・・という想像も、十分に現実的なシーンでもある。

詳しいボクシングファンとして知られる俳優の香川照之氏。クイズ番組の収録中の合間に、試合予想のインタビューに答えてくれた。

「まさか本当に決まるとは思いませんでした。ガッティは世界的に人気の高い王者です。彼と戦いたい選手達が行列を作って待っている様な状況なのによく日本に呼べました。坂本選手とは間違いなくフックの打ち合いになります。両者のフックが届く、この距離がポイント。ここです!」身振り手振りで熱く語る香川氏。

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「これまでの坂本選手の世界戦の相手は皆、どちらかといえばストレートの選手でした。距離を上手く支配されポイントを取られたんです。でも今回はその心配がない。ガッティも打ち合いで真価を発揮するタイプですし、ストレートよりはフックを打てるショートレンジが好きな王者です。坂本選手が最も噛み合う世界王者だと思いますよ。もちろん噛み合うから勝てるワケではありませんし、逆にピンチに陥るリスクもある。つまり面白い試合になるという事が、やる前から確約されている試合なのです!ラストチャンスを公言するKOキングの豪打が、横浜で爆発する事を願ってやみません」

子供達への報告

幼少期に両親が離婚。

親類に預けられ満足に食事も出来ない生活が続いた坂本は、福岡市東区の養護施設『和白青松園』に預けられている。子供達(特に自分と同じ様に児童養護施設に預けられたり、不遇な経験をした子供達)に自分が戦う姿を見せて、生きる希望、勇気を与える事。それは彼が戦う理由であり、この場所に世界のベルトを持ち帰る事は戦う本人を含む皆の夢だった。

3月の世界挑戦ではKO寸前まで王者を追い詰めながら、あと一歩のところで逃した世界のベルト。

7月のある日。4度目の世界挑戦が決まったことを伝える為、坂本は和白青松園を訪れた。

「今日はみんなに報告があります!」

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「10月11日。世界タイトルマッチが決まりました。WBC王者のガッティに挑戦します」

拍手が巻き起こる。

「坂本さん、頑張って!」

「応援にいきます!」

ここで園児達から坂本にサプライズのプレゼントがあった。

試合の時にハッピを来て応援する、応援団長の雄二からそれが手渡される。

「勝って欲しいという思いを込めて、みんなで作りました」

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「坂本さんが世界チャンピオンになれます様に!」

銀色の手作りのベルト。

坂本はありがとうと御礼を言って、丁寧に受け取った。

ガッティの噂を聞きつけた子供達から質問が飛ぶ。「今度のチャンピオンは、坂本さんから逃げないんでしょ!」「うん。相手も打ち合いで力を発揮するタイプ。みんな、期待してね」

勝ちたい。今度こそ。

勝って約束を果たしてみせる。

坂本は噛みしめる様な口調で誓った。

「必ず世界チャンピオンになって、ここにベルトを持ち帰ります」

アルツロ・ガッティ vs 坂本博之

運命のゴングが鳴り響いた。

いつもの様にガードを固めて前進する坂本。左ガードを下げるデトロイトスタイルで練習していた噂もあったが、両ガードを上げる従来のスタイルで戦い始めた。急なスタイル変更が功を奏す様な相手じゃない。これで良い。

坂本と距離を取るか序盤から接近戦に応じるか、ガッティはどう出るのか。すぐにリング中央で強打の応酬が始まった。残り1分を過ぎたあたり、両者の左フックが相打ちギリギリの角度で空を切る。

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予想通りのスリリングなシーンに歓声があがる。

坂本の出方を伺いつつ、日本のリングでの自分の体のキレを確かめる様にワンツー主体でパンチを放つガッティ。残り10秒、ガッティが足を止めて左右のボディフックを坂本に打ち込んで来た。応戦する坂本。左フックは空を切ったが右ボディが王者を捉えたところで初回終了。

コーナーでサラストレーナーの指示を通訳が坂本に伝える。「良いプレッシャーだよサカモト、今のままで良い」

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「相手は君のパンチ力やフックが届く距離感を確かめていた。いいか。近づいたら単発で終わるな。最低でも1、2、3、4まで返せ。いきなり上は当たらない。基本は下から。時々、上だ」

2回。

ガッティが開始早々コンビネーションをまとめて来る。フックの距離ではなく、中間距離でストレートや大きめのオーバーハンドを多用しての連打。坂本はガードを固めて前に出るが、自分の得意な距離まで詰められない。2分過ぎ。坂本が飛び込みながら上半身を沈めて打った右フックがヒット。動きが止まったガッティと接近戦。火の出そうなスリル満点の打ち合いが披露され、2回終了のゴング後は大歓声が鳴り響いた。

友人の栗田も興奮を隠せない。

「予想通りの展開!やっぱり坂本のフック当たるな」

3回。

試合が動く。

坂本のいきなりの右がガッティの左顔面を捉えた直後だった。そのままストンと尻餅をつく王者。ガッティ、ダウン!

レフェリーはカウントを数えているが、本人はダウンじゃないとジャスチャーしている。たしかに滑ってバランスを崩した様にも見えた。

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納得いかなそうな表情のままカウントを聞くガッティ。王者陣営のセコンドが叫ぶ。「ノー!!スリップ!!!」試合再開と同時に坂本は突っ込んだ。右フックがガッティの側頭部を捉える。バランスを崩して足元が定まらないガッティ。

チャンスだ。

本当にダウンだったかどうかは分からないけど、ガッティの足元は揺れている。突如訪れたのハイライトシーンに場内総立ち。

「いけ!決めちまえ!」

「坂本いけ!」

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坂本の左右のフックがモロに命中!

ここで坂本もガッティの反撃をまともに被弾。ガードを突き破る貫通力。やはりパンチ力はすごい。この打ち合いで坂本は左目の上をカット。3月のセラノ戦で切った古傷が少し開いた。

次の瞬間、 坂本の右アッパーが炸裂した。

棒立ちになったところに左をフォロー。

ガッティ、2度目のダウン!

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王者のコーナーを見ると、セコンドは大慌てで「立て!」と言っている。

立ち上がったガッティ。

ダメージの色は・・? ある!

残りのスタミナの事は考えずにフィニッシュを狙って良い局面だ。全員が坂本にそう叫んでいる。

残り30秒弱。

坂本は打ちまくった。

打って打って打ちまくった。

2度のダウンを奪った後、レフェリーストップを呼び込めそうなチャンスがありながら逃げられてしまったセラノ戦。あの悪夢を振り払うかの様に打ちまくる坂本。

栗田が呟く。

「あかん。ワイルドになり過ぎとる。」

ガッティは打ち返さずにカードを固めて、下がりながら時間を使う。坂本がラッシュして大歓声があがっているが、ダウン後のラッシュは全てガードの上。綺麗に入ったパンチはない。

ピンチを乗り切った王者が打ち返してきた。右ストレートが坂本を捉える。貰いながらそのまま右フックを放つ坂本。その右はガッティのガードを突き破った。

「坂本!もう一発!」

レフェリーが両者の間に割って入った。

大歓声で聞き取れなかったが、3回終了のゴングが鳴ったらしい。

3回終了後のインターバル。

状況アナが解説の鬼塚にコメントをふるのが聞こえてくる。

「凄い手数でしたね坂本選手。決める気でラッシュしたと思いますよ」

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「あそこから30秒を凌いだガッティもさすがです。この勢いのまま攻め続けたいところですが、ガッティがファイト・オブ・ザ・イヤーを獲った試合は攻め込まれてから盛り返してますから。勝負はまだ分かりません。坂本選手の目の古傷が心配です」

続く4回。

ファンが期待した歓喜の瞬間は訪れる事なく・・見せられたのは、足を止めた打ち合いをせずに 「出入りのボクシング」を始めたガッティだった。足を使ってリング上をサークリングするガッティ。

戦法の選択肢があるのはガッティのほう。

試合前に王者のマネージャーはそう言っていた。試合の局面に応じて、こういう戦い方も出来る選手なんだろう。あのダメージを引きずったまま打ち合うのは危険過ぎるし、回復を優先しつつあわよくばポイントも取れるなら、それに切り替えるのは当然の事。

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栗田は不安そうに言った。

「ショートレンジで打ち合っても分が悪いと思ったんやろう。坂本はこれを捕まえやなあかん。ポイントはどんどん向こうにいくぞ」

その通り、ガッティがこのボクシングを始めてから中盤戦の坂本は毎回の様にポイントを失っていった。ラウンドの中で坂本のパンチは当たるけど単発で終わってしまう。接近戦なら4発5発とコンビネーションの回転を上げられるが、動かれ続けるとそうもいかない。

ラウンド開始時の坂本は凄い勢いで猛攻を仕掛けるが、古傷の上をコツコツ打たれる事で視界の悪化が進んでいるのだろう。見辛そうに瞬きを繰り返している。

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ポイントを失っていく流れと視界の悪化による焦りから強打を決めようとパンチが大きくなり、その心理を読んだガッティの勝ちに徹したボクシングが面白い様にペースを握っていく。

その展開を変えられないまま試合は9回終了まで進んだ。

解説の竹原慎二のコメントが聞こえる。

「坂本君、もうひと山作りたいですね。このまま判定に行ったら厳しい」

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「ガッティがボクシングを始めてからは、おそらくポイントは取られています。上ばかり狙いがちなので、ここで下から攻めて欲しい。まだチャンスはありますよ。開き直ってもっと強引に行って欲しいです。押し込んで左フックをボディーに持って行けば、当たりますから」

試合の流れを取り返したとはいえ、ガッティ側のコーナーを見ると余裕がありそうには見えない。最初から今の戦法で試合を始めたのではなく、途中でそう"させられた"展開とも言える。試合前に坂本をノックアウトすると宣言した彼にしても、このままでは終われないはず。

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序盤に坂本のアッパーを貰った影響で目の下の晴れが凄い。セコンドがエンソエルを局部に当てて腫れ止めを行う。

どんな指示をしているんだろう?

このままで行けなのか。それとも・・

10回。

坂本の執念が2度目の山場を呼び寄せた。

開始直後、強引に王者をロープ際に追い込んで左右のボディーを4連打。体を入れかえようとしたガッティに右ストレートがジャストミート。

死に体になった王者を追撃する坂本。

来た。

ここを逃したらチャンスは来ない。

「仕留めろ!坂本!」

右ボディーで体をくの字に追った後、

平成のKOキングの左フックが炸裂した。

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「よっしゃ!一発がある坂本にはこれができる」

ガッティはカウント8まで休んで立ってきた。坂本は追撃を仕掛けるが、ガッティも打ち返してくる。アイバン・ロビンソン戦の終盤のシーンを彷彿とさせる様な、ダウンしてからの猛攻。坂本も打ち疲れを隠せない。王者の反撃の左ボディーから右アッパーを被弾。ど真ん中に貰ってしまった坂本の足元が揺れる。

反撃に拍車をかけてくるガッティ。

チャンスが一転、ピンチになりそうな空気が漂う。

左斜め前の席のカップルの叫び声が聞こえる。

「あ~んもう!さっきまであんなフラフラだったのにぃ!」

「ボクサーってのはな。相手を効かせると元気になっちゃうんだよ」

どっかの漫画で読んだ様なやりとり・・・そう思った瞬間、坂本の右ストレートが王者に命中。大歓声に包まれながら10回が終了。

コーナーに戻る時、坂本はアリーナの後方席に向かって右手を突き上げた。

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視線の先には応援団の垂れ幕。不動心。

「打ち返されて効いたけど、このラウンドはダウン取ったから10-8や」

ポイントは追い付いたんだろうか?

わからない。

11回。

坂本のスピードは目に見えて落ちている。

危険な大振りは観てて危なっかしい。

今日はそれでも、当たる。

人生を懸けて戦う坂本博之の背中を後押ししたい。この日一番の坂本コールが巻き起こった。

さっかもと!さっかもと!

さっかもと!さっかもと!

ガッティは打ち合ってきた。最終ラウンドまで出入りのボクシングをやろうと思えば出来たのかもしれないし、出来ないと判断したのかもしれない。真相は分からないが、足を止めて坂本と打ち合う王者。

この回を含めてあと2ラウンド。

ポイントはどうなんだろうか。採点表の中身を今、見たい。

その時、王者陣営のセコンドがガッティに何かの指示を送ったのが見えた。突き出した腕をスッと引くようなジャスチャーをしている。

何の指示をした?

接近戦で打ち合っていたガッティが、スッとバックステップしながら左を放った。一瞬の出来事だった。

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坂本は顎の先端を打たれ、倒れた。

「えっ・・」

絶句の直後、アリーナにこだまする悲鳴。

「嘘や嘘や!こんなん、嘘や!」

そう叫んだ後、栗田も黙り込んだ。

あれは、明らかに狙って打たせた。

敵ながら天晴れというしかない・・

坂本のダメージは?明らかに効いている。平行感覚が定まらない様子が伝わってくる。ここでレフェリーが誤審をしでかした。明らかなダウンだったが角度的にインパクトの瞬間が見えてなかったらしく、まさかのスリップ判定。

ダウンなら8カウントまで休めるのに・・すぐに試合が再開されそうだ。ヤバい。今ラッシュされたら確実にヤバい。

坂本コーナーのイスマエル・サラストレーナーが、大声で坂本に何かを叫んだ。次の瞬間、坂本はマウスピースを吐き出した。

試合中は出来る限り、マウスピースを装着しない状態で選手を戦わせてはいけないというルールがある。苦肉の時間稼ぎ。「それでいい!今日負けたら終わりなんや!生き残れ坂本!」

マウスピースの入れ直しを指示するタイミングはレフェリーによってまちまちだが、この日のレフェリーはその場ですぐ、入れ直しを指示した。これで少し時間が稼げる。

「ナイスレフェリー!誤審もチャラにしたる」

試合再開。残り15秒。

耐える坂本。

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王者の猛攻が坂本の体を揺らす。

坂本はなりふり構わずクリンチした。

ここは、時間を稼ぐしかない。

密着状態でガッティが右手を上げた。序盤の坂本ならすかさず左ボディーをブチ込む場面なのに、手が出ない。

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ガードのうえから一方的に打たれる坂本。

王者も疲れている。

アクセントを付けた連打をまとめれば止めるレフェリーもいそうな状況だが、ガッティもそれができない。

11回終了。

なんとか生き残った。

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どうだ!と言わんばかりに両手を突き上げるガッティ。 ラウンド終了まで持ちこたえた事への安堵の溜息が場内に充満した。

この時、福岡の和白青松園はシーンと静まり返っていた。

現地観戦組と園内観戦組に分かれており、雄二はこの日も園内観戦組の応援団長として場を盛り上げていた。坂本がダウンを奪った時は近所から苦情が来るんじゃないかと思う程の大騒ぎだったが、TKO負け寸前まで追い詰められた11回終了後のインターバルは誰も言葉を発しない。

雄二の幼馴染み、美咲は泣き出した。

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「もう嫌・・・また負けてしまうの」

雄二はつられて泣いてしまいそうな自分と必死に戦った。ここで自分が泣いたら、きっとみんな泣き出してしまう。

今度こそ、ベルトを持ち帰るから。

あの日の坂本の声が脳裏に浮かんできた。

泣くわけにはいかない。

「まだ分からないよ。応援しよう!」

下を向いて黙っていた園児達が、だんだん顔を上げだした。

「・・・だめだ」

雄二は大きく声を張り上げた。

「坂本さんから、目を反らしちゃだめだ!」

最終12回。

坂本は勢いよくコーナーを飛び出した。深いダメージが残っているが、まるで回復したかの様な勢いでガッティに向かっていく。勝ちたい思いだけが瀕死の坂本を支えていた。先に貰えば危ない。先に当てたい。

右、左、精度は落ちているがガッティに当たる。ガッティのパンチは坂本のガードの上に当たっていた。噂された左ガードを下げるデトロイトスタイルを決行していたら、きっと11回で試合は終わっていたんじゃないか。両ガードをあげたまま前進する従来のスタイルがこの最終ラウンドは吉と出ている。

流れを変えようとガッティが緩急をつけた連打でラッシュしてきた。右アッパーがついに坂本のガードを突き破った。

攻めるガッティ。

坂本が棒立ちになった。

また耐える時間が始まるのか・・

そうなりそうな次の1発を貰う前に、坂本の左フックが王者のボディに炸裂した。

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耐えきれずに倒れるガッティ。

狂喜乱舞の横浜アリーナ。

「っっしゃあああああ」

「立つなぁあああ」

「そのまま寝ててろぉおおお」

カウントが進む。

3・・4・・5・・

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6・・7・・8・・

諦めるんじゃないか!?

そう思ったけど、苦悶の表情でガッティは立ち上がった。

残り試合時間は1分。

中盤戦でポイントは大量に失っているはず。

決めたい。

試合再開後、坂本は渾身の左フックを放った。

大振り過ぎて空を切る。

バランスを崩す坂本。

打ち返すチャンスなのに、ガッティは手が出ない。

さっかもと!さっかもと!

さっかもと!さっかもと!

追撃のボディーが入って王者の動きが止まる。

残り30秒。

ガッティーは打ち返してきた。

ファイト・オブ・ザ・イヤー連覇の激闘王。やはり並みじゃない。

坂本は被弾しながらも、大きく左フックを放った。坂本博之の生き様を象徴する様なシーンだった。

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残り10秒の合図が鳴る。

両者、打ち続けた。

どちらもフラフラになりながらリングに立ち続けた。

そして、試合終了のゴング。

大歓声と拍手が巻き起こっているが、頭の中はフル回転で採点の行方を考えている。

「栗田。判定どう思う?」

「・・きわどい。」

結末

序盤と終盤は坂本、中盤はガッティという分かりやすい展開でありながら、出入りのボクシングでポイントを連取されたであろうラウンドが長かった。奪ったダウンの回数がそれを相殺しきれたのかどうか分からない。

リングアナウンサーが採点表を読み上げ始めた。

「115-113、坂本!」

1人目は坂本。大歓声が上がる。

「116-112、ガッティ!」

やはり割れてる。会場のファンもそう感じた試合だったんだろう。驚きもブーイングも出ない。

全員が静かに結末を待った。

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「115-113!」

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「2-1のスプリット・デシジョンにより勝者・・」

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「WBC世界ライト級・・」

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「新チャンピオン、坂本博之!」

"新"まで聞こえた後、絶叫にかき消されてもう何も聞こえなかった。大地震が起きた様に、横浜アリーナは揺れ続けた。

坂本博之の世界タイトル奪取。

本人だけの夢じゃなく、彼を応援する全ボクシングファンの願い。その願いがついに叶った。

どちらの勝ちでもおかしくない激しく苦しい名勝負の末に、彼の拳は世界に届いた。

勝利者インタビュー。噛みしめる様にファンへの感謝を言葉にする坂本。

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絶対絶命のピンチだった11回。体が言う事をきかなかった時。ファンの歓声に助けられ、子供達の顔が浮かび、なんとか耐えられたと。

そして思い出した様にこう言った。

「福岡の和白青松園にいるはずの子の声が、聞こえた気がしたんです」

坂本の友人。辰吉丈一郎もリングに上がり、新王者を祝福した。アナウンサーはカリスマからのコメントを貰おうとマイクを向ける。

「おめでとう。耐えて獲ったベルトやと思います。ご苦労さん」

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混沌とするリング上。

関係者じゃないのに紛れ込んでリングに上がっている様に見える人もいる。

「関係者以外はリングから降りてください!」

そうアナウンスされたけど、この大勝利の喜びで完全にお祭り騒ぎ。前王者ガッティはしばらくの間、茫然とその場に立ち尽くしていた。

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リングを降りるガッティに、熱い拍手と歓声が贈られた。

「ガッティ強かったよ!」

「ありがとうガッティ!」

ガッティは日本のファンに手を振り、静かに花道から消えて控室へと戻っていった。翌日の会見でのガッティのコメントは率直な内容。

「ポイントは勝ってると思ったので判定は納得がいかないけど、今は新チャンピオンにおめでとうと言うよ。サカモトは強かった」

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「再戦したい。もしベルトが彼に渡った場合、再戦する契約になっている。来年早々にでもやりたいね。場所は私のホームが良い。次は明白に勝利する自信があるよ」

そう話すガッティのサングラスの下の腫れは、激闘を物語っていた。

試合後の出来事

この年。

2000年のシドニーオリンピック。

マラソンで圧勝の金メダルを獲得し、日本中を沸かせた高橋尚子。

年末の報知プロスポーツ大賞の表彰式。

坂本はそこで高橋尚子と会った。

「坂本さん、もう目のお怪我は大丈夫ですか?」

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高橋から坂本に話しかけて来た。

10月のガッティ戦はテレビの前で釘付けだったと言う。

「そこまで深くなかったので、もう大丈夫です。それにしても高橋さん。国民栄誉賞まで授与されて、凄いですね!」

「自分でも信じられません笑・・・坂本さん。私、ボクシングとマラソンって実は似てるところがあると思うんです。ボクサーの方も毎日、凄い距離を走られるんですよね」

そう言われれば、共通する部分はあるかもしれない。

高橋尚子が呼ばれて特設ステージに上がり、手渡された報知プロスポーツ大賞のトロフィーを掲げると、地鳴りの様な大歓声が聞こえてくる。

次が自分の番だと思うと坂本は少し不安になった。高橋さんの次か・・

世界王者になってからテレビ出演などでメディア露出は増えているとは言え、国民的なヒーローとなった彼女の次に自分が登場して役不足にならないのだろうか。そう考えているうちに、名前が呼ばれた。

「続いてはボクシング界からこの方です。WBC世界ライト級チャンピオン!坂本博之さんです!」

ステージ中央まで歩き、手渡されたトロフィーを掲げた。

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坂本は圧倒された。

竜巻の様な歓声と眩しいフラッシュの雨が降り注いで来る。予想を遥かに超える好反応に笑顔で応えつつ、内心は少し戸惑った。

「坂本さん!おめでとう!」

「世界チャンピオン!おめでとう」

「感動をありがとう!チャンピオン!」

瞬間最高視聴率は30%近くまで伸びたガッティ戦。試合から2ヵ月経っていたけど、人々の感動は薄れてなどいない。スタンディング・オーベーションが起きていた。

表彰式を終えた後、ジムの会長に呼び出された坂本は次の試合についての話を聞かされる。

「ガッティとのリマッチの前に一戦挟むぞ。ガッティ陣営への"待ち料"をテレビ局が出してくれる事になった 」

世界タイトルを獲ると、色んなところでお金が動く。

「初防衛戦は来年の3月だ。ミッキー・ウォード、リック吉村、畑山隆則。この中から選べ。誰にする?」

....その問いに、新王者は迷わず即答した。

自宅に戻り、届いたばかりの新品のWBCのベルトを磨く坂本。丁寧に専用ケースに入れて、明日の福岡行きの準備を始める。

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明日はこのベルトを持って行く日。

試合の日から間が空いてしまったけど、やっとこれを持って和白青松園に行ける。

子供達との約束

車を和白青松園の前に停めてドアを開けようとした時、会長から電話が来た。

「決まったぞ。3月1日の両国。希望通りの相手だ」「わかりました。ありがとうございます」そう言って電話を切る坂本。

既に携帯の待ち受け画面は次の相手の写真にした。戦いはもう始まっている。

でも・・・取りあえず今日は、次の試合の事は忘れよう。子供達が待ってる。

伝えてあった時間より早めの到着になったのに、全員外に出て坂本を待っている様だった。

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「坂本さん!」

「坂本さんだ!おかえり」

坂本の姿が見えると、子供達は飛び跳ねる様に喜んだ。

雄二が駆け寄ってきた。

「坂本さん。俺......信じてた」

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「ありがとうな」

坂本は雄二の肩を抱き寄せながら、心の中でつぶやいた。あの時、おまえの声が聞こえたよ。

次々に集まって来る子供達。

「ベルトを見せて!」

「世界チャンピオンのベルト、見たい!」

こらこら。中に入ってからにしなさい。先生がそう言ってたしなめてくれたが、子供達は坂本の手元にある大きなものが気になって仕方ない。

「わかった。ここで見せるよ」

坂本はそう言いながら、ケースからベルトを取り出した。ずっと待たせてきた。果たせなかった約束。

「わぁ。綺麗・・」

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子供達の今までで一番の笑顔。

坂本はWBCのベルトを両手で空高く掲げた。

ついに持ち帰った世界一の証。

希望の象徴が、眩しく光り輝いた。

あとがきのようなモノ

「幻の夜 アルツロ・ガッティ vs 坂本博之 ~One Nigtht Illusion~」を読んでいただきありがとうございます。

前回の井上尚弥vsロマゴン戦を書いたきっかけは凄くシンプルな理由でした。見たかったのに実現しないなら、実現させればいい。

「坂本博之を世界王者にしたい」叶わぬ願いでしたが、同じ発想でやっちゃえと。

ツイッターで"好きなボクサーを10人上げると人柄がバレる"というハッシュタグが流行った時に1人だけ、世界王者じゃないのにやたらと名前があがるボクサーでした。そこで坂本博之の魅力を改めて実感したのもきっかけになった気がします。

実は、現実の世界のガッティはライト級タイトルは獲ってないんですよ^^
Sフェザー級からいっきにSライト級に階級を上げてるんです。2000年10月の時点でのWBCライト級王者はカスティージョなので、坂本がカスティージョに挑むという展開も書けなくはないものの、一ファンとしてガッティ坂本戦の方がきっと面白い試合になるだろうと思いガッティにしました。

フィクションとは言え、出来る限り臨場感を出したい・・と思いつつも「??」な気持ちのまま公開したシーンもありますよそりゃ。11回の坂本のダウンシーン。佐竹政一戦の動画を使った場面ですが、いくらなんでもガッティが急にサウスポーにスイッチしてて左ストレート打つなんて「ないわ~」と思いつつもちょうど良い動画が他に見つからず、仕方なくアレを使ってます。もっと良いのが見つかれば、しれっとすり替えておくかもしれません。

時空対決も良いですが、「世界王者になって欲しかったボクサーの別の挑戦試合」も書いていて楽しいものです。トラッシュ中沼、亀海喜寛、石井広三、仲里繁、葛西裕一・・・挑む相手が変われば、世界を獲っていたボクサー達の幻の一戦。まだまだ沢山います。

読んでくれた方々のリアクションが今の僕のモチベーションですので是非、ツイッターでもブログのコメント欄でも良いので記憶に残ったシーンや、好きなシーンやその理由など教えていただけると、とても嬉しいです。

それではまた!

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コメント

コメント一覧 (2件)

  • ご存知のように私はガッティ選手を存じ上げません。その上でコメントいたしますね。
    序盤から早々に打ち合う両者、大振りであっても畳み掛けようとする坂本選手。
    栗田さんの言う「あかん。ワイルドになり過ぎとる。」に私も早速不安を感じてしまいました。
    ガッティは、どんな反撃の手段を持っているのだろうと。
    『まさか、もう一つの世界でも。。?』
    自分の距離で戦えないならアウトボクシングもする。
    ピンチならばマウスピースだって吐き出す。
    今まで何千何百というという激戦を観たからTokkyさんだからこそ織り込んだシーンだったのではないでしょうか?
    坂本さんが戦う理由、勝って世界チャンピオンになりたい理由、世界のベルトをどうしても持ち帰りたい理由。
    そこにはいつも施設の子供たちがいます。
    アニメ【あしたのジョー】が大好きな私には、彼らがドヤ街の子供たちと重なります。
    彼らは泣きながらもジョーから目を背けません。ジョーが勝つと信じて信じてやみません。
    ジョーは、子供たちの為に戦ったとは思いませんが。。
    「マラソンとボクシングは似ている」私の知り合いのマラソンをやっている人もそう言っていました。
    3分、1分、3分、1分で体内時計が回っているのだと。
    そして走らないと世界なんかには届かないと元ボクシング王者達も仰っていましたね。
    逆に質問したいのですが、今回書いていて楽しかった所はどこですか?^^
    ちなみに映像がご本人でないことは、前回の井上ロマゴン戦同様まったく気になりませんよ!
    よく見つけてきたなあと関心するばかりです。(拍手!)

  • みあかさん、コメントありがとうございます。逆質問ありがとうございます。2000年といえば高橋尚子の金メダルですから、彼女と坂本の共演?の様なシーンを描けたところですかね。楽しかったです。引き続き宜しくお願いします!

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